バトンリレー対談
はじめに・・・
創立40周年を迎え、かつ自身が70歳を迎える今年。
創業者として39年間弊社をけん引してきた相沢人司は
代表取締役社長の座を退き、
後任に常務取締役だった大塚征則を新社長に据えました。
2月には社長交代のバトンリレーセレモニーを社内で開催しました。
昭和グループの相談役として、今後もにらみを利かす相沢から
大塚征則新社長へ果たしてどんなバトンが渡されたのか。
二人の対談から新社長の人となりが垣間見られれば幸いです。
はじめに・・・
創立40周年を迎え、かつ自身が70歳を迎える今年。
創業者として39年間弊社をけん引してきた相沢人司は代表取締役社長の座を退き、後任に常務取締役だった大塚征則を新社長に据えました。
2月には社長交代のバトンリレーセレモニーを社内で開催しました。
昭和グループの相談役として、今後もにらみを利かす相沢から大塚征則新社長へ果たしてどんなバトンが渡されたのか。
二人の対談から新社長の人となりが垣間見られれば幸いです。
ズシリと重い、二代目のバトン
新社長就任からの心境の変化は?
大塚就任して数カ月たちますが、ようやく社長と呼ばれることにも慣れてきました。
相沢お祝いの胡蝶蘭が足の踏み場もないほど届いて羨ましかったよ。今年でうちも40周年。
30歳のときに私は独立したわけだけれども、ちょうどその年に、
お世話になった秋葉原の家電量販店の40周年を迎えてね。
赤坂のホテルで盛大に祝ったのを覚えてますよ。
でも、まさか自分の会社の40周年を迎えようとは夢にも思わなかった。
振り返れば、あっという間です。
大塚過ぎ去った日は短いですか?
相沢もうね、どんどん早くなってった。社内で行った社長交代セレモニーで、
会社のこれまでの写真が写しだされたDVDには泣かされた。
いろいろ思い出されてね。思い出がありすぎだよ。
大塚まさかのサプライズで、亡くなった母が映っている写真には僕も思わず涙しました。
相沢君の母親(私の姉)には会社設立当時から何かと手を貸してもらった。
写真のバックに流れた『カーテンコール』」という曲が
また我々の心境そのままでね。最初から二人して男泣きした懇親会だったな。
大塚実際にバトンを用意していたら、“多くの過ちも残してバトンを渡す”って・・、
歌詞にバトンが登場するんですから。
相沢“今、幕が下りる、そして次の時代が始まる” というサビは、まるで我々のためにあるようだった。
大塚初めて聞いた曲でしたが、よすぎるくらいいい曲でした。相談役の光る銀のスーツもよかったですよ。
相沢銀のスーツに金のバトン!
新社長入社のいきさつとは?
大塚今年で入社29年になりますが、
僕にとって昭和電気産業の始まりは、アルバイトです。小遣い欲しさに行きました。
相沢力仕事でも何でも仕事はいくらでもあったからね。だけど、私から怒られっぱなしだったよね。
大塚はい。
相沢君は本当にやんちゃだったもんね。私も懲りずによく叱ったなあ。親を飛び越えて叱った。
だから、君はうちの長男みたいなもんだ。
大塚私には世の中で苦手なものが2つありまして。それは、お化けと叔父である相談役です。
未だに相談役は怖い。仕事を始めてからは特に怖い存在になりました。
相沢だけど、私から「うちに来い」なんて言ったことはないよ。
大塚相談役は、私の小さい頃の憧れでした。私の父親も商売をしていましたが、工務店。
だからスーツを着て車に乗っている社長の叔父さんはすごくカッコよかった。
相沢一人息子で長男だったから、当然家業の工務店を継ぐものとばかり思っていたよ。
大塚今だから申しますが、叔父さんのところに行けば楽ができるかなと。
ですから、私が自分で勝手に決めて出向きました。
ですが、それは甘かった(笑)。
相沢入社当日から怒鳴られたものな。
大塚忘れもしません。18歳で料亭デビュー。
相沢お客さんと一緒だったよね。
大塚右も左もわからない18の、それもヤンチャしてた若造が入社当日
いきなり湯島の料亭でご接待です。
衝撃でしたよ。
私はそんな料亭はもちろん初めて。どう振舞っていいかわからないし、話はチンプンカンプン。
何も話すこともできないですから、出てくる料理をただひたすら食べるしかない。
そうしたら帰りのタクシーで、お客さんを送り届けた途端、
相談役に、「バカモン!お客様より先にどんどん食べるんじゃない」って怒鳴られました。
相沢誰も手をつけてないのに、真っ先に食べたからね(笑)。
大塚もう、小さい頃から怒鳴られっぱなしでした。
相沢よく辞めなかったね。
大塚子供時代からのおつきあいですから。
相沢そう。君は昭和電気を全部知ってる男よ(笑)。
なぜ40年間会社が存続できたのか?
相沢この40年間、時には不動産に手を出したりして経営的に厳しい時期が続いたりもしましたよ。
でも、その時苦労だとは全然思わなかった。仕事ですから、ダメならばどんどん切る。
これが私のやり方。いつまでもズルズルはしない。
見切り千両。無駄なことは省いて借金は性急に返済していったからね。
大塚あのころは、高級車も即売りましたよね。
相沢いろいろありながらも、40年もやってこれたのは、一に、“応援団”の皆様のおかげ様、
二つ目に現状に甘んじていたら“次はない”という危機感を常に持っていたからかな。
例えば、温水洗浄便座。それを、メディア通販でやった。
今でこそ温水洗浄便座はどこにでも当たり前に普及しているけれども、
その当時はまだまだ浸透してなくて、
まして公共の電波を使った通販でお尻を洗うトイレの紹介をするなんてと、
関係者は難色を示したものですよ。
大塚もっと前の時代は、汎用の自動販売機やソーラーヒートポンプ給湯器、
それから英会話ソフトや個人情報保護の教材も
大手と共同開発して発売元になっていましたよね。
相沢昭和電気産業と名付けたのは、商品を創っていく会社を目指す意味から
きている。けれども、振り返ればどれも今当たり前にある商品ばかりですよ。
だから言うの。
電車に乗っていてもヴォーッとしてる奴と車内刷りの一つでもよく見てる奴の差ですと。
ヴォーッと生きてんじゃないよ!って、チコちゃんに叱られないようにね(笑)。
大塚はい。では、叱られないように現在の課題から。
業務的に通販が中心ではありますが、通販ももっとアイテムを増やさなければなりません。
これは、社の永遠の課題です。そしてかつて相談役の時代がそうだったように、
通販は一つの事業とし、さらなる事業を展開していかなければ、会社運営はこの先厳しいでしょう。
相沢時代は恐るべき速さで移り変わっていっている。
我々の時代は携帯もパソコンも、ワープロもまだない時代だった。そういった時代の中
で通信事業に将来性を見出して手掛けてきたから今がある。常に何かしらを探していかなければ
生き残っていかれないですからね。
大塚それには、人。
なんでもきっかけは、人でした。
相沢営業で歩いていた時に肝に銘じていた言葉に、
“取引先のなかでも、行きにくいところへ行け”というのがあったな。
大塚事業展開の多角化をやり遂げれば、必然的に売り上げも増えて人も増やせます。
しかしやみくもに会社を大きくする気持ちは毛頭ありません。一人づつでも社員を増やし、
今ある課題を具体化させていけば足元を固めていくことができる。そう私は思っています。
メディア通販を主力事業にまで発展させた。
相沢様々な業種の中で、当初メディア通販は、うちではほんの一部に過ぎなかった。
ところが会社の9割を占める事業にまで発展させたのが、君だからね。
大塚大きく伸びたうちの強みは商品に工事部門を加えたからです。
商品は温水洗浄便座から始まって、その先はエアコンでしたが、当初競合する会社が10数社あり、
選定会にいくら提案しても毎回落ちるんです。これではダメだと危機感をもったとき、
たまたまうちにあった工事部門を商品に合体させることをハタと思いついたんです。
これならば絶対いける!まるでカードが裏返ったように、
一瞬にして不安が自信に変わったときのことは一生忘れません。
相沢今では当たり前のサービスである“標準工事費込み”という商品を君は生んだわけだ。
当時、売れるはずはないといわれたお尻を洗うトイレ便座。
サイクロン方式の掃除機も他社に先駆けてラジオ通販のヒット商品となった。
君は日本の通販の先達だね。だって当時通販はまだラジオの時代だからね。
大塚通販黎明期です。テレビと違いラジオですから、
ポイントを押さえた説明をしなければ、いくら優れた商品といえども
売れないことを嫌というほど教えられました。
相沢目に見えない商品をラジオの向こうのリスナーさんにどう売るかは至難の業。
リアルに想像させる技だな。ウンウンと首を振らせる技だよね。
テレビを見てる人はいちいち首なんか振らないよ(笑)
大塚もちろん表現方法などに工夫を凝らしましたが、
各放送局でしゃべっているおなじみのアナウンサーさんが紹介する通販番組は、
お客様の信用度が格段に高いことを教えて頂きました。
弊社は、局に代わってお客様のお宅に上がり、取り付け工事をしているのですから、
全社あげて安心安全を一番に心がけてきました。
相沢我々はその信用を裏切ってはいけないし、それ以上のものをお客様に提供するのがサービスだからね。
大塚自分が惚れ込んだ商品は、
その良さを訴えたくなるんです。絶対にこれは売れる! これは世に出したい! そう思います。
だからこそ商品探しから自分でやりますし、
伝手がなくてもメーカーさんのドアを叩くのは当たり前です。
そして局に出向いて説明をするわけですが、それが受け入れられ、
実際に売れたりすれば、これ以上のやりがいはありません。
おかげさまで仕事は面白いですし、昔からメチャクチャ楽しいです。
なぜこのタイミングで社長交代を?
相沢通販が主力商品になってきた10年くらい前から、次を継ぐのは君だとは考えていた。
けれどもそんな重大事項はそう軽々しく口にすることではないですよ。
ニュアンスとして言ったことはあったかもしれないけれども、正式には、ここ1、2年だよね。
大塚はい。きちんと伝えられたのは、最近です。
相沢なんにでも時があるんですよ、タイミング。
社長交代だって、当事者だけでなく周囲からもご理解を頂けるタイミングがある。
うちの場合も、それは私の引くタイミング、君がメーカーさんなどに認めてもらえるだけの
器に成長しているタイミングなどなど、いろいろありますよ。
そう考えていったら、今年、私は70歳。会社も40周年を迎える。君も今年、年男よ!
大塚おまけに平成から令和へと元号まで変わりました。
相沢そう。こんなタイミングは、ありそうでない!
絶妙なタイミングですよ。
いつやるの? やるなら、今。今でしょ!ってね(笑)。
大塚ただ、私は「それでは私がやります」と答えた覚えはありません。
それより「私で大丈夫なの?」という不安の方が大きかった。
相沢そりゃあ、そうですよ。私が独立したときだって、独立すると自分の中で決断はしていても、
いざ実際に事務所開きの日を迎えたら、
「ほんとに大丈夫なのか?」って、急に我に返ったような不安に襲われたからね。
大塚ちょうど今の僕です。
相沢独立して何年もの間、心配で暮れの31日まで会社に出ていたからね。
31日の夜には、赤坂の日枝神社にお参りに行ったものですよ。
でもね、手を合わせながらも、「来年、会社はあるんだろうか?」って、いつも思っていた。
しかしだからこそ逆に懸命にやったというのはあるね。
大塚日枝神社ですか。夢にでてきそうです。
相沢社長になってまだ数カ月だけど、見える景色がまるで違うでしょ。
いや。なぜ君を二代目社長にと考えたかは、この10年の君の働きに尽きる。
株式会社昭和電気産業はじめ、グループ会社は、私の人生すべてですよ。関われたみんなの
幸せがそこにあった。その実質10年間、皆に支えられながらも通販事業を主流にして
先頭を切って勝負してきたのは、君です。いわば社長だったようなものだからね。
大塚・・・・・
相沢以前、通販業界へ挨拶に行きそびれたままになっていた私に、ある人が、
「大塚君は、エライ頑張ってますよ。だからたまには顔を見せてください」と言われてね。
これって、凄い誉め言葉‥いや・・心から嬉しかった。
大塚相談役の、“人生すべて“を受け継いで、どっぷりやっていかなければならないのが、私です。
正直、二代目というバトンは私には荷が重いです。
特に会社のこれまでをつぶさに見てきているので余計重さを感じます。
舵取りはまだ先のことです。けれどもまずは、
絶対に諦めないところや人に優しいところなど数々ある相談役の素晴らしさを
一つでも身に付けていかれればと思っています。
相沢あのね。重いと感じられる奴にしかバトンは渡さないよ。
軍師役として秀吉を支えた竹中半兵衛が古い兵法から『将器』という
名言を伝えています。将たる者の器になるための戒めです。
それは、こんな一文で始まります。
腹黒き人を見分け、危機を未然に察知し、
能く部下を統率する。是れ未だ十人の将なり。
私はこれまで、腹黒き人の見分けがつかなかったがために、どれだけ茨の道を歩まされたか。
だからいまだ十人すら統率できない存在ですよ。
でもね、大事なのは、この兵法の一つでも心がけようとする、気持ち。それが大事。
この後も読んでみてください。はなむけに贈ります。